2002年03月07日
4月に入ったとはいえ、まだ肌寒さを感じる夜だった。
3日ほど前に、ジャスコ(当時、フタギ)で買い求めたシャツの上から、父のお古である茶色のVネックセーターを着ただけの私には、そう感じられた。
昭和46年4月6日だったと記憶している。午後7時過ぎに姫路駅を出る東京行きの夜行列車、急行「瀬戸」で私は、上京した。創価大学法学部1期生の入学式の2日前である。
急行「瀬戸」は夜行列車だが、ブルートレインではない。急行券と座席指定券を購入するだけだから、ブルートレインよりもはるかに安い。
両手に抱えた二つの袋が、東京での新しい生活用品のすべてだった。
城北新町の家から20分ほどバスに乗り、父と母が、駅のホームまで私を見送りに来てくれた。父が笑顔、母は哀しげな顔を見せた。
「できたばかりの大学に、なぜ行くのか」。
銀行員だった父は、創価大学入学に反対した。
「なぜ、東京に行くのか。家が嫌なのか。神戸にも、大阪にもいい大学はたくさんある。何も信之が入学しなくても、創価大学には優秀な人材がいっぱい来るから、その人たちが、創価大学を立派に建設していく。何もお前が行かなくてもいい」。
母も反対だった。二度と一緒に暮らせなくなることを直感したのだろうか。
母は受験すること自体にも、反対した。
僕は、創価大学の開学の意義を話したが、母としての感情の前では、どんな言葉も説得力を持ち合わせていなかった。母は最後まで、神戸の大学にこだわった。
「卒業すれば、姫路に帰る」と言って、最後まで抵抗し、学費を出してもらった。二間の県営住宅から中古住宅に移り住んで2年が過ぎたばかりの我が家にとって、私大入学の費用工面は大変だった。
入学してから、たびたび創立者がスピーチしてくださった。
「無名の創価大学によく来てくださった。ありがとう。そして、皆さんを送り出してくださった、お父さんやお母さんに感謝する。ご両親によろしく。親孝行を」という趣旨のお話を、創立者は、スピーチの都度、冒頭に繰り返し繰り返しおっしゃった。
当時、僕は「何も、そんなことを毎回おっしゃっていただかなくても」と思ったものだ。浅はかだった。入学のいきさつを考えても、本当に僕は浅はかだった。
姫路駅のホームから列車に乗り込む前に、母が「頑張りや」と小さな声で言った。父は微笑んでいた。
列車がホームから滑り出すと、父は大きく手を振ってくれた。母の手は小さく揺れただけだった。
あの夜から31年が過ぎた。何十回も、帰省と上京を繰り返したが、両親が揃って、駅まで見送ってくれたのは、この夜だけである。
父は、平成10年に他界して、もういない。
長男・信一が、1年浪人の末、今春、創価大学法学部に合格したせいか、ついつい筆が滑ってしまった。
2005年09月18日
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亡き父上様もさぞかし喜んでおられると思います。また、前回、小樽の小林 多喜二記念館のお話も印象に残っています。なにはともあれ庶民感覚を大事のされている福永さん頑張れ、トップ当選を祈っています。