2001年11月21日
午後4時前に羽田に帰着。夜は県本部主催の「介護保険・健康保険」の勉強会に参加した。講師は桝屋敬悟・厚生労働省副大臣。
実は桝屋氏には10月にも県本部を通じて来県を希望したが、日程調整がつかず実現しなかった。たまたま母校でお会いした時にその旨を話したところ、「谷合さん=谷合則子新座市議=さんからもメールで依頼を受けている。11月は必ず行かせていただく」と返事をもらっていた。約束を守っていただき、うれしかった。
1時間弱、社会保障制度全体が当面する課題について講演していただいた後、やはり1時間近く参加者からの質問を受け付けてくれた。私も何点か質問と要望をさせていただいた。副大臣になっても、全く飾らない桝屋氏の人柄には感銘した。
ついでに書くと、桝屋氏は創価大学1期生で、私は同じクラスで学ばせていただいた。また、1年目は「法と社会研究会」、2年目以降は「刑法研究会」でご一緒し、机を並べて議論を戦わせたことがある。当時から、大物の風格があり、逆立ちしても桝屋氏のようにはなれないと劣等感のようなものを感じていた「人物」である。
「法と社会研究会」の代表5人で1台の中古車に乗って、一緒に新潟水俣病の現地調査に赴いたことも懐かしい思い出である。昭和48年10月、30年前のことである。
創立半年の創価大学の知名度はゼロに等しかった。桝屋氏らは新潟水俣病訴訟の原告、弁護団の人たちから話を聞いて回った。私たちは事件・公判の取材にあたった新潟日報記者、新潟大学の椿教授らを訪ねた。これに先立ち全員で『新潟水俣病』を著したルポライターの五十嵐氏から古町の喫茶店でお話を伺ったことも懐かしい。
関越自動車道の開通前であり、峠の手前で車にチェーンをはめた。なにしろ運転手は免許取り立ての同級生でヒヤヒヤものだった。確か3泊したと思うが、バイトで貯めたお金を握りしめての新潟行きであり、宿泊は3泊とも1人200円のオールナイト映画館の座席だった。
お訪ねした人で創価大学の名前を知っている人はいなかった。第1回創大祭の当日朝まで展示の準備にあたった。創立者はていねいに展示をご覧いただいた。生命に刻まれた金の思い出である。
大学祭の全体集会で、大学祭を成功させようとした努力は10年後、20年後に花を咲かせる、という趣旨のスピーチをお聞きして、漠然とだが、新聞記者になって社会的弱者のために働き、公正な社会づくりに貢献したいとの思いが芽生えた。卒業後、公明新聞に進むことになった、私の原点である。
2005年09月17日
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